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「玖島の里を歩こう!」の様子
「玖島の里を歩こう!」の様子
8月12日 川上方面 作家大田洋子ゆかりの地めぐり
今月は、被爆80年非核平和事業として、原爆文学の領域を拓いた小説家大田洋子さんゆかりの地を平本伸之さん(玖島在住)に解説いただきながら歩きました。
開催日の3日前から降り続いた大雨の影響もあり、参加者は少なめでしたが、玖島地区外から参加された方は、平本さんに熱心に質問されていました。玖島地区在住の参加者は、「私がこどもの頃は、この交差点の近くに映画館があったんよ」などと、昔の玖島の様子を教えてくださいました。
旧松本商店
玖島市民センターの斜め向かいにある旧松本商店は、大田洋子さんが代表作「屍の街」を執筆した場所です。外観は変わりましたが、内部構造は当日のまま残されています。昭和60年に放送されたテレビドラマ「天に焼かれた被爆作家・大田洋子」のロケ地でもあり、当時、主演の高橋洋子さんは、実際に大田洋子さんの服を着て演じられました。現在は、夢工房(社会福祉法人くさのみ福祉会)が手作りパンの製造販売をされています。
旧玖島小学校・大田洋子の碑
大田洋子さんは、この地にあった尋常科(小学校)を大正5年春に卒業しています。昭和53年12月に建立された石碑には、「屍の街」の一節が刻まれています。「屍の街」には玖島村に収容された被爆者は360人あまりと記録されています。現在は、玖島花咲く館(玖島の里づくり交流拠点施設)として、地域の方が「カフェ玖島学園」で季節の食材をいかしたランチを提供したり、「直売所くじまルシェ」で地元の野菜などを販売されたりしています。
八田家(廿日市市指定文化財)
「流離の岸」に高額納税者の家として、大田洋子さんが都谷村(旧豊平町)から玖島村に移った頃の栄衰の様子が描かれています。明治期の八田家は、「佐伯郡内なら八田家の山だけで移動できる」とまで言われた広島県有数の名家でした。15,000町の山林のほか、酒造業、醤油蔵、銀行、鉱業などを有し、行政基盤が貧弱な時代に、道路、鉄道、沿岸部の新開地、学校、警察など旧佐伯郡の開発や災害支援、嚴島神社保存に多大な貢献をされました。玖島地区の勁操園(けいそうえん)(通称:八田公園)には、その功績を称えた碑があります。
広谷旅館跡
8月6日に広島市で被爆した大田洋子さんは、3日間野宿した後、8月10日に木造3階建ての広谷旅館に一時避難しました。その後、松本商店に移り住みました。現在は、矢口商店となっており、当時の建物は残っていません。向かい側には、戦没者慰霊碑や歴史民俗資料館があります。
大田洋子の墓(稲井家墓地)
昭和38年、取材で訪れていた福島県の旅館にて急死した大田洋子さん(享年60歳)のお墓が稲井家墓地にあります。お墓にお花を供えて、みんなでお参りしました。墓地の対岸の水田に囲まれた場所には、大田洋子さんが住んでいた稲井家がありましたが、現在はその痕跡は残っていません。
参加者の感想(アンケートから)
・大田洋子さんに関しては、玖島で執筆された程度の知識しかありませんでした。幼少期から玖島に縁があり、作家活動の経緯、原爆を受け困難を乗り越え多数の著書を発表されたことなどを知ることができました。少しずつ作品に触れていきたいと思います(玖島地区在住)
・玖島地区を歩いて、昔、繁栄した頃や大田洋子さんがこの地にいた頃などを知ることができて良かった(廿日市地区在住)
・初めての参加だったので、新たに歴史を知ることができて満足しました(四季が丘地区在住)
7月8日 正之原方面
今月は、正之原を歩きました。暑い中でのウォーキングでしたが、川のせせらぎがちょっとだけ”涼”をくれました。
写真左の「天堂知足之碑」は、世界の平和と人々の幸福を祈願して建てられたそうです。
写真右の「塩がま(跡)」では、塩が貴重な時代、海から遠い玖島でも塩がつくられていたそうです。
車でさっと通ってしまうと、気づかないようなものも、たくさん見つけられました。
6月10日 雨天中止
5月13日 吉末方面
今年度初めての「玖島の里を歩こう!」は、玖島市民センターから吉末方面に向けて歩きました。田んぼの水面に大峰山が逆さに映る景色は、この時期ならではですね。