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阿品の概要

印刷用ページを表示する掲載日:2017年3月24日更新

  阿品地区は、昭和40年頃から阿品団地、田尻団地、ふじタウン、廿日市ニュータウンなどの住宅団地が次々に開発され、緑に囲まれた谷状の地形もすっかり変貌しました。

 伝説によれば、阿品の本谷には、今は開発によりなくなりましたが、昔から「はみが首」という所があり、その奥の大岩近くに「ジャコウばみ」と呼ぶジャコウの香りを放つ大蛇が住んでいたとのことです。この「はみが首」の先端にあった土盛りが、今から1200年くらい昔の阿品の土豪を祀ったものです。

 阿品に人が住み始めたのもこの頃と考えられます。阿品の氏神である岩神社の祭神は、一説に足名椎(あしなづち)ともいいます。足名椎は八岐大蛇(やまたのおろち)退治で有名な奇稲田姫(くしなだひめ)の父親で農耕の神様です。阿品の地名は、この足名椎によるという説もあります。

 このほかにも、昔この辺りが葦の原であったことによるという説、弘法大師がここで水を飲んだときに「味なし」と言ったことによるという 説などもあります。

 センターから来た方面を望む
 市民センター(公民館)から北方面を望む

 国道2号線と西広島バイパスが交差する辺りに、以前は、火立岩という岩山がありました。弘治元年(1555年)厳島合戦のとき毛利の軍船がここに集結し、厳島攻めの本陣とされた所です。このとき農民は海岸に数百の篝火(かがりび)を灯し、毛利勢を助けたといいます。

 阿品の地名が初めて文献に見えるのは、天正18年(1590年)の厳島文書で、これによれば、この頃荒れ地を開墾したとされています。今から400年くらい前の毛利氏の時代にはこの辺りを「阿字名(あじな)村」と呼んでいましたが、江戸時代には地御前村の内となり、地御前神社あたりから東方一帯を本郷(ほんごう)と呼ぶのに対し、当地は阿品組という枝郷(えだごう)となりました。
 江戸時代の初めの頃には「あし原」という地名があり、葦の原が生い茂っていたようですが、田11.7ha、畑0.7haの耕地が拓かれ、7軒の屋敷がありました。

 明治11年(1878年)には、阿品新開拓かれるなど、次第に開発が進みました。明治18年(1885年)には、それまで宮内から山沿いに大野へと通じていた西国街道に代わって国道2号線が開通し、さらに大正14年(1925年)には広電宮島線が開通して阿品電停が設けられるなど、交通事情が一変し、夏場の海岸は広島方面からの海水浴客などで賑わいました。

 現在でも、JR阿品駅(平成元年8月開業)前ナタリー跡地や海岸沿いに大規模なマンションや小売店舗ができるなど、大きく様変わりしようとし ています。

 センター屋上から宮島を望む
 市民センター(公民館)屋上から見た宮島